うそラジオ Podcast 松任谷由実はじめました

*******これは構成作家・大川女史のページです*******

最近、麻木久仁子の早口にてんでついていけない。
遠足で言うなら、麻木久仁子が、到着した山の上で楽しそうにおにぎりを食べているのに、こっちはまだ首にタオルを巻いて山道を歩いているかんじだ。ああ、私も早くおにぎりが食べながらエヘへエヘへと笑いたい。おにぎりを食べたあとには包んであった銀紙をきゅうっと丸めてキャッチボールがしたい。
・・・・うまくいえないが、『どうでもいいもどかしさ』というヤツに、今私はみまわれているのだ。麻木久仁子の早口についていけないことは、私の日常をなんらおびやかすものではなく、別に悔しいわけでも悲しいわけでもないどうでもいいことなのに、しっくりこない。
誰もが思春期に言われることになっている「いい?? 大人の世界ではね、決して1+1=2じゃないこともあるのよ!!」というセリフと出会ったときのようなもどかしさである。

先日、江川卓からも私はそのもどかしさとやらをもらってしまった。
場所は渋谷・東急文化村。シアターコクーンでのこと。中村勘九郎・中村橋ノ助・中村獅童・笹野高史などが出演するコクーン歌舞伎を見に行った際、休憩時間にロビーで江川卓と対面。といっても、知ってるわけではないので見てみぬふりをしながら家政婦のようにじっと見ていた。でも、最初に見た瞬間からもどかしかった。
いったいなにがそうさせたのかというと、それは耳だった。彼のトレードマークでもあるあの耳が、思ったよりも小さかったのだ。イラストのときにはダンボばりにでかく書いてあるあの耳がとってもリトル。
え???どこにあの耳が?? そうつぶやいて私は遠くから背伸びをして江川耳を探すほどだった。よく芸能人はテレビで見るより小さいとか細いとか言われるが確かにそうだ。私も普段見ていてそう感じることはよくある。でも、比率はそのままのはずだ。細くても小さくてもいいけれど、耳が占める割合はテレビと同じであるべきなのだ。たとえば思ったよりも背が小さかった猪木。でもアゴはテレビと同じ立派な猪木アゴだった。千秋だってテレビで見たとおり美しいまでに耳はとがっていた。それなのに私の目の前には耳の小さい江川卓。別にファンではないが、あれは私が知っている江川卓じゃなーーーーーいーーーーーー!!!! ああ、もどかしい。

縮んだのだろうか。
実はその説をひそかに私は温めている。なぜなら、あのいかりや長介を思い出してほしい。昔はあんなにくちびるべろんちょといわれていたのに、今ではどう見たってぶあついとは言えない。あのころメガホン片手に「おいーーっす!!もういっちょ!!」と豪快にやっていた同一のくちびるとは思えない。

だが私にはわかる。私は小さいころでべそだった。その明らかに出ているへそを見つめて悩んでいる私に祖母は「大きくなったら普通のおへそになるよ」と常にのんきになだめていたが、まんざら嘘ではなかった。大人になって私のでべそは普通のへそになっていた。(X-ファイルみたいに真夜中にこっそり私のへそを祖母が手術していたなら別だが)  
年齢を重ねていくうちに縮む身体の機能たち。
そうならば、江川を責めてはいけない。・・・・・すまなかった、江川。

もどかしい気持ちはときにやっかいな感情を生む。こんなふうに謝ったりしてしまえば、気持ちも楽になる。私はまだまだ謝りたい。ということはまだまだもどかしい気持ちを抱えているということだ。
・・・・・私はセインカミュが好きだ。好きだったという表現が今ではふさわしいかもしれない。あんなボーイフレンドがいたら長いソファーの端と端に座ってお互いアンティークな電気スタンドの明かりで読書でもしながら時を過ごしたいとずっと思っていた。(一緒の部屋にいながら別々のことをして時間を過ごすそんな恋愛に憧れていた頃) 少年のような瞳のセイン。肩から背中、そして腰・・とすらりきらりとしたそのライン。そんな美しかったはずのセインが、私には最近なんだか太って見えるのだ。その腰まわりはなんだ???といいつつ、自分のセルライト地獄に風呂場で悲鳴を上げている私。 も、もどかしい。もう、私の知っているセインではないーーーーーーーー。そしてセインを好きだった頃の私ももういない。さよならセイン。さよなら私。夢を・・・夢をありがとう。

私の中のもどかしさは、謝ったりお礼を述べたり別れを告げることでようやく消えてゆくのでした。
(ユーミンネタがちっとも出てなくてすみません)